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なぜ僕たちは空の上で涙を流しながら映画を観るのだろう

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#1: Navy Pier Chicago

 

シカゴへの出張から帰国して、少し思う事があった(と言ってもシカゴとは全く関係がないのだが・・・)。

旅の機内の映画で号泣してしまったと言った類の話題には事欠かない。かく言う筆者もご他聞に漏れずである。

筆者は元来人並み以上に映画を鑑賞する趣味は無かったが、二年ほど前から仕事柄頻繁に海外出張をするようになり、機内での暇つぶしに映画を観る機会が増え、遅まきながら映画にハマり始めた。その影響で家でも細君と映画を観ることが増えた。何しろ旧作ならTSUTAYAで一週間100円で借りられるのだからついつい暇さえあれば借りてしまうわけである。

そうした事を続けているうちに気づいた事がある。自宅で細君と鑑賞するよりも機内での方が「号泣率」が高いのではないか、と言う事だ。当初は作品の選び方による偶然に過ぎないと思っていたのだが、かれこれ二年もその傾向が変わらないため、何か理由があるのではと考えた。もちろん、「自宅だろうが何処だろうが泣けるもんは泣ける」という方も大勢おられるだろうし、仮に賛同いただけたとしても、以下に述べる理由が全く当てはまらない方もおられるだろう。あくまでも個人的な考察ということでご容赦いただきたい。

さて、個人的に機上の方が「号泣率」が高い理由である。旅行(あるいは出張)という状態が心理に影響を及ぼすのか?はたまた機上という環境が気圧などの物理的なものも含めて身体に作用をもたらすのか?

最近になって少し分かってきたような気がする。現時点での自分なりの結論はこうだ。大切な要素は、「『独りで』日常から遠いところに居る」ということではないかと思う。

ところで結婚する以前、筆者は毎年バックパックを背負って一人旅をしていた。それは中毒のようなもので、今でもあの頃が恋しくて胸が切なくなる。その頃、ブログにこんな事を書いたのを思い出した。これは僕がまだ二十代の半ばだった頃のある旅先で記した手記だ。

あの日あの場所で、彼や彼女に出会えたことを
本当に幸せだと思うのだ。

一人一人が毎日を過ごすに連れて、そこに一本ずつの「線」が引かれて
それが時折、偶然交差するイメージを、僕は持っている。
その交差に大きな喜びを見いだすこともあれば、
交差したことにすら気づかないときもきっとあるのだろう。

もし毎日が喜ばしい交差の連続だったら
どんなに楽しいか分かったものではない。

でも人間は悲しいことに、馴れてしまう生き物だ。

だから僕は、3日後、つまりは日本へ帰ることになるのだろう。
そして4日後には、つまらない会社でつまらない日常を迎えることになるのだ。

僕にはやはり、「日常」が必要なのだ。
「非日常」を食べ過ぎてはいけないと思うのだ。

それはとても贅沢で、とても傲慢なことだと思われるかもしれない。
お金があって、時間があって、いざとなれば「非日常」へ飛び出せるからこそ
そんなことが言えるのかもしれない。

それについて反論する術を、今は持ち合わせない。

ただ、本当はお金や時間を作り出せるのにも関わらずそれをしないのは
いっぱいいっぱいになって日常を向上させようと努力している人たちに対して
馬鹿にしているような気もするし、悔しいような気もするので
とりあえず自分が暮らす日本で、できることをするのが最善なのだと思う。
今はそれ以外に解答が見つからない。

そして、「日常」でお腹がいっぱいになった頃、
僕はまた「非日常」に逃げ出して、小さな偶然の交差に、
大きな喜びを見いだすことができるのだろう。

その喜びを、どのようにすれば自分の成長に活かせるのか、それは分からないが
無いよりはある方がずっとよいものだと、自分では思えるので、自分は幸せだと思う。

こんなことを考えていたら、早く日本へ帰りたくなってきた。
日本にも、会いたい人がたくさんいることを、ふと思い出した。
やはり、自分は幸せなのだと、今、思う。

だから、旅はやめられない。

(関連リンク)

 

実は「なぜ自分は機内で映画を観ると泣けるのか」ということを考えていた時にこの古い手記を思い出したのは偶然ではない気がするのだ。今ならこの手記の最後にこう付け加えるだろう。

だから、旅はやめられない。だって、退屈だと思っていた日常が、恋しくてかけがえのないものだってことに気づくことができるんだから

 

さて、そういった心理状態で映画を観たらどうだろう。そこでは、恋愛、夫婦、親子、友人・・・様々な日常が非常にドラマチックに描かれている(SFやアクションものだって「大切な誰か・何かを守る」などと言うような大義名分がある)。そうすると俄然、遠く離れた東京に置いてきた「日常」に心がフォーカスされ、無駄にヒロイックにこんな事が脳裏をよぎったりするわけだ。

「明日俺が爆死しても後悔しないように子供達にもっと何かを残してあげなければ」

「明日地球が滅亡したら細君(あるいは恋人)にもっと優しくしなかったことを悔いるだろう」

残念なことに人類には「離れてみなければその価値が分からない」といった性質がある。たとえば同じ映画を観たとしても、すぐ隣に細君が(大概ユニクロのジャージを着て)座っているのと、家族と遠く離れて独り空の上の人となって観るのとでは、日常に対して抱く感傷には雲泥の差があることは間違いない。もっといえば、すぐ隣にユニクロのジャージを着た細君が居て晩酌をしながら映画を観るという状況自体が、日常の極致であると言えよう。それではヒロイックに日常を思い出す事はあるまい。(決して誤解していただきたくないのだが、その状況自体が望ましくないと言うことでは無く、遠く離れた際に輝いて見える幸せな日常である、という事である。遠く離れればユニクロのジャージも輝いて見えるのだ。たぶん)。

さて、ここまで考えてみると、まだまだ考察の余地はある。「独り、遠く離れた地で」という条件ということであれば、機内でなくても、単純に旅先、出張先などで映画を観れば過剰に号泣できるということになる。しかしこういったケースについてはまだ多くの実地経験がないため、そういった状況でもユニクロのジャージがかけがえのない物に見えるのかどうか、今後じっくり検証していきたいと思う。

 


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